40代、われは主婦なり伸びんとす。

感受性やや強め40代のゆるらかブログ。

いりょうのはなし。

私は、赤ちゃんの時から病院や医者が嫌いだった(らしい)。
記憶はないのだが、母から話を聞く限り相当な嫌いっぷりだ。

まず、1~3歳で行う町の予防接種では、頑なに嫌がり、順番が来ると泣いて大騒ぎするため、順番を飛ばしてもらい、結果2時間くらい母がなだめながら最後の最後になるというのがお決まりのパターンだったらしい。
しかも、最終的に打てずに帰ることもあったそうだ。

それから、風邪をひいた時。
高熱を出しやすかった私は、頻繁に熱を出し病院に通ったらしいが、幼稚園くらいになると言葉も話せるため、母に「病院は行かない。熱も自分で下げる。」と宣言し、本当に熱を下げてしまう子だったらしい。
母は心配性のため、直ぐに病院に連れていきたがったが、そこも譲らなかったようだ。
この頃になると記憶が残っているのだが、とにかく病院の雰囲気と、医者の冷たい手、口に突っ込まれる訳の分からない器具、そして変な味の薬たち....
全てに不信感と恐怖しかなかった。

どうにも熱が下がらない時は流石に病院へ行ったが、診察室に入るや否や「お口は見せません。薬も飲みません。お注射だけしてください。」と要望する名物幼稚園児となった。
お注射とは、お尻から腰の辺りに熱冷ましを打つのだが、普通は痛みで泣いたり暴れたりすりらしいが、チビゆるらかは痛くてもじっと耐えていたようだ。

そんな幼稚園児は当時1人も居なかったので、院内で有名になり、みんなが「今日はどうするの?」と、ニコニコ話しかけてきたのを覚えている。
強面のクールな院長でさえも、「ゆるらかー、よく来たなー(笑)今日は何だい?」と可愛がってくれるようになった。
しばらく間を空けて行くと、看護士さんたちが「院長先生が、ゆるらかが来ないって寂しがってたよ~!」と言われる程になった。

それでも、私は変わらず、どんな薬を飲むかまで選ぶ子どもだった。
何でそうなったのかは分からないのだが、20歳頃までは病院や医者を信じたことはなかったように思う。

そして、私が大人になる頃、ツムラ漢方薬が一部の病院で出されるようになってきた。
飲みにくくて、とても続けられるようなものではないのだが、これは信じることができた。
自分の身体で実験したりもしたが、症状が出た時に適切な物を飲むと、その日のうちには完全に治ってしまうということもあったから。
これで更に私は病院と関わることがなくなっていった。

西洋医学に助けられたこともあるので、反対派ってわけではないが、成分だったり効能だったりを知らずに言われるがまま身体に入れてしまうのは気持ち的にも拒絶反応が出てしまうのだ。

漢方薬も、飲みすぎや飲み合わせによっては毒となるのは当たり前だし、実際に苦い体験もしているので、うまく使用することは気を付けているが、ただただ化学薬品で騙すというのはいただけないなぁと思っている。

うちの飼い犬が生まれつき腸が弱く、犬を飼うのが初めてなこともあり分からない私は、犬のためにと病院通いをしていた時期があった。
アレルギー検査もしたが何もなく、病気も特にない。
とりあえずと「抗生物質」を出され続けたのだが、確かに下痢は止まるが、食欲は落ち、どんどん弱っていった。
毛も抜け始め、せめてキレイにしていてあげようと思い、いつもシャンプーを頼んでいたお店に連絡を取ったのだが、改装工事でしばらくお休みだと断れてしまった。

困った私は、インターネットで調べ、直ぐに予約できるお店を見つけた。
まさか、それが運命の出会いになるとは思いもしなかった..。

シャンプーに連れていき、事情を話すと、直ぐに注意を受けた。
免疫を上げてあげなくてはならない所を、薬で落とし続けたらどうなるのか..人間と同じであると。
そこで、目が覚めた。あ、私は自分が嫌がっていたことを飼い犬にしてしまっていたのかと。
治したい一心で真逆に突っ走っていることを思い知らされた。

そのお店の店長さんはドイツの自然療法を学んでいて、ご自身の経験からも、いかに西洋医学が危険かを知っている方だった。

まずは薬の解毒のために、抗生物質を止め免疫を上げるように本物の栄養(サプリ)を取らせること、皮膚には自然由来のクリームを塗ること、これだけで変わると言われた。
実際に試してみると、数日で食欲は回復、目に力が宿った。
朝しっぽをぶんぶん振って飛び付いてくるようにもなった。
便も良い状態になり、奇跡のような展開に喜びと感謝でいっぱいになった。

しかし、皮膚が治らず、また相談に行くと、「今まで飲んできた化学薬品が抜けきるまでは続くだろうから、解毒を気長にやりましょう。」と言われた。

身体に入ってしまった化学薬品の怖さを痛感した瞬間だった。

そして、この飼い犬が使っているサプリやクリームは自然由来なので、犬も人間も家中で使うことができる。
病院の薬でそんなことはできないが、ドイツの厳選された自然由来のものであれば、こうゆうことができるのだ。
このドイツの自然療法については奥深いので次に書こう。


昨今、カオス過ぎる世の中、人間は自然本来の姿に戻れるのかが試されているような気がする。

しごとのはなし。③

「しごとのはなし。②」からの続き。

さて、靴屋さんを辞めてからの私は子育てで忙しく、上の子が幼稚園に入るまではひたすら子どもと一緒の時間を家で過ごした。

可愛くて可愛くて一時も子どもと離れたくなかなったのが1番の理由。
何時なんどき子どもに呼ばれても直ぐに返事ができる私で居たかった。


しかし、子どもが幼稚園に入ると、心にポッカリ穴が空いたように寂しくなった。
たった数時間でも気がかりでソワソワ落ち着かず、電話がきたら直ぐにお迎えに行けるようにと、その時間は電話の近くを離れるのが怖くなった。

流石にこれじゃイカンと思い、その幼稚園の時間だけ近所の不動産屋で働くことにした。

子どもとお散歩中に見かけた「パート募集」の文字にピンときたのだ。
面接の日、社長と話をすると「もう今日から働いてくれ」と頼まれるくらいとんとん拍子に話が進んだ。個人の所なんてそんなものか。


そこから私の不動産屋のお仕事が始まったのだが、
何と私の任務は「留守番」だった。
こんなことあるだろうか。

初日、何をしたら良いですか?と聞くと、「特に何もないので、好きにやって。あぁ、掃除でもしてもらおうかな。」と言われたのだ。
つまり、社長は留守番(店番)が欲しかったということだ。

これには、私も驚きを隠せなかったが、とにかく家に居なければ子どもの心配も紛れるし、お金もいただけるのだし、、と心を決めることにした。


先ずはトイレ掃除から始めた。
全てが汚くカビだらけ、薄暗くてジメジメとしていて気持ちが悪かった。

変な目隠し用の布を取り外し風を入れた。
変な飾りも捨てた。
そして、とにかく便器や床を綺麗に磨き、別のトイレのように仕上げた。
社長は喜び、それまでは他のトイレを使っていたのに、嬉しそうに使うようになった。


次に事務所の整理をした。
物が乱雑に置いてあり、何が何処にあるのか全く分からないのは効率が良くないと思うのだ。
大事そうな資料も多く、片付けるのにほんの少しだけ躊躇したが、ガッツリやってみた。
すると、物置と化していたデスク達が本来の姿を見せ、かなり事務所らしくなった。
これもまた社長が喜び、商談等もそこで行うようになった。


そして、そろそろ本来の業務のはずだった不動産屋の仕事をしてみたくなってきた私は、道に面した窓にベタベタと貼られていた空き物件や土地の売り出しのポップが日に焼けて色が黄ばんでいるのを作り直させて欲しいとお願いした。
社長は全く興味がないようで、軽く「良いよ。」と返事をしてくれた。
ここで、靴屋のポップを作った経験が生きてくる。
無駄なことって1つもないなと実感した瞬間だった。
間取りを図にするに辺り「CAD使えないの?」と言われたが、ただの事務資格しか持ってない人間が使えるわけがない。
地道にExcelで作った(笑)


楽しかったポップ作りも終わり、何をしようか考えていると、社長が外回りに連れ出してくれるようになった。
色んな物件を回り、新しく作ったアパートにも1番最初に入ることが許され、ワクワクしながら探検をした。
新しい建物のあのワクワクする感じは好きだ。
中には事故物件もあり、感受性の強い私は外から眺めるだけに止めた。


物件探しをしているお客様がふらっと寄ってくれるようにもなってきた頃、お客様に案内をする仕事もさせてもらえるようになった。
認められた気がした。


家庭の事情で辞めることにはなったが、こんな感じで2年くらい良い経験をさせてもらった。
掃除や片付けに始まった不動産屋の仕事だったが、最終的にはお役に立てたのではないかと自負している。

そんな、おしごとのはなしでした。

しごとのはなし。②

前回の「しごとのはなし。①」の続き。
理由はないが、自分の職歴をつらつらと書き(打ち)残している。


次に就いたのは、靴屋さんだった。
エステからの変わりように驚かれるが、これは私がやってみたかった仕事だった。

朝から晩まで10時間以上立ちっぱなしで、かなりブラックな接客業ではあったが、最高で1日100足近く売上たりすることもあった。
営業時間が終わる頃には疲れを通り越してハイテンションになり、まだまだいける!!なんて思う程の達成感のあるものだった。
全く売れない日もあったが、そんな日は色んな靴を試し履きして、どうに紹介するかを考えたり、買ってもらえるようなメッセージのポップを作ったりと、ワクワクする毎日だった。


そして、接客業は様々な出会いもある。

試し履きをしているお客様が、私に靴紐を結んで欲しいと頼んできたので言われたとおりに結んであげると、御満悦でそのまま履いて帰ると会計に直行。
そして置き去りの履いてきた靴は、捨てておくよう頼まれる。
半年以上経った頃、私が結んだままの靴紐の状態でそのお客様が来店する。
「あんたが結んでくれた靴紐、崩れなかったよ。また頼めるかい。」と

こうゆう何気ないやり取りも、やりがいに繋がった。


しかし、仕事は遊びではない。
当たり前だが、大変なことも山のようにある。

1つの店を経営するとは本当に大変なことだ。
どんなに素晴らしい商品も、とにかく売れなければ意味がない。仕入れの失敗は命取り。
逆に、機能性もなく一時の流行りのような商品が何も言わずともバンバン売れたりする。
時代を読む力や、柔軟性が問われる仕事。

自分に嘘がつけない性格のせいで、そんな所にストレスを感じるようになってしまった。
若さ故か割りきれない自分と戦うことが増えていった。

そんな裏側が見えてきた頃、チーフから昇格の話をされた。
この靴屋は、最初は時給制の契約社員からスタートし、ご縁があれば月給制の準社員になることもあるという仕組みなのだ。そこから正規の社員になる人も居るようだった。

正直、すでに違和感を感じ始めていた自分に、責任を持って仕事をする自信はなかった。
売上だけ考えてうまく仕事をすれば良いのは分かっているが、自分が信じきれず怖かったのだ。


結局昇格は断り、その後間もなく辞めてしまった。


辞めたことに後悔は何一つしていない。
またひとつ自分を知ることができたから。


私は履き心地の良いスニーカーが好きだ。
革靴も良い。とにかく履き心地の良い靴は最高。

いつから好きになったのだろう。
オシャレというものに目覚めた頃から、TVや雑誌を見ていると芸能人やモデルさんの靴に目が行ってしまうタイプだった。

シンプルな服にド派手な靴、とか、フリフリのドレスにスニーカーとかブーツのように王道じゃないスタイルが好きだった。

中学の頃、年配の弱々しい男の先生がスーツにスニーカースタイルだった、それだけで好感を持ったのを覚えている。

小~中学生の頃は、スニーカーなら、CONVERSEのオールスターのハイカットやジャックパーセルにワンスター、adidasのスーパースターやスタンスミス、ブーツはドクターマーチンみたいに自分の中で決まりがあった。

そんな私が、人生で1度だけ履きたくもない靴を履いていた時期がある。

あれは私が学生の頃、厚底の靴がとにかく流行った時期があった。
履いていないと非国民くらいの割合で若い女の子が厚底のブーツやスニーカー等を履き、街中を歩いていた。
私もその流行りのど真ん中の世代だったため、避けては通れないでいた。
いや、時代に負けたのだな。

ソールは最低でも10㎝はあり、転んで捻挫をする人も居るくらいの靴だった。
今思い出しても異様な格好。


その反動か?靴屋で働くようになってからは好きなスニーカーを年に数足は買った。
new balanceの魅力を知った私は、一足数万円するような靴を躊躇なく買った。

1日10時間以上立ちっぱなしでも脚が疲れないことで本物の素晴らしさは証明された。

それから、仕入れの時に私がカタログから選ぶ靴は、いつもクラシックな物を選んでしまうことも自分を知るキッカケになった。


色々あった数年ではあったが、あの時、飛び込んで良かったなーと今でも思う。
当時買った靴達は、劣化とともにサヨナラしたり、欲しそうな人にあげたりしてしまったから、今やほとんど残っていないが...
私の生き方をあらわしているな~(笑)

しごとのはなし。①

私はここ十数年事務的な仕事をしている。
が、私の社会人スタートはエステティシャンだった。


特に憧れていたわけではなく、たまたま話が舞い込んできたことが始まり。
事務の資格しか持っておらず、美容の専門学校を出たわけでもないという、ど素人な人間が最初から現場でアシスタントという強行なものだった。

元々人を喜ばせることは好きだったので、性格的には向いていたのだと思う。
アシスタントながらに、お客様が笑顔で帰っていく姿を見るのは気持ちが良かった。
エステが始まるとグッスリ眠ってしまうお客様も多く、信頼ってすごいなと感心さえしていた。

(その当時の私には他人の前でグッスリ眠るなんて怖いことだと思っていたので。これはいまだに治らず残っていて、相当信頼している人の前じゃないと深く眠れない。)


世の中のエステのイメージは、きっとこうだろう。

華やかで綺麗な女性達が沢山働いている世界
ゆったりした空気に心地よいBGM、心安らぐ香りに包まれた空間。
その中で極上の癒しやサービスを受ける・・・


しかし、私の働いていた現実は違う。

華やかで綺麗な女性達のほとんどが、お客様に見えない場所でタバコを吸っていた。
自分の働いている場所だけかと思ったら、大きな集まりがあった時に、かなりの割合の女性がタバコを吸っていたので、驚いたのを覚えている。
決してタバコを悪だと言っているわけではないのだが、ギャップにショックを受けた。
私は今まで生きてきて1度も吸いたいと思ったことがないので。


ゆったりした空気、これは、お客様が居る時間だけである。その前後は片付けに準備にドタバタ。
引き出しや扉を足で閉めるなんて序の口。
ぶつかっても謝らない。
これも、私にはショックだった。
忙しいのは分かるが、何て乱暴なのだ...と。


心安らぐ香り、これもお客様の居る時間のみ。
上記のように、タバコ臭がすごいのを隠すために香水や消臭剤をつけたり、カップラーメンの香りを消すために換気をしたりする。
タバコ臭がどのくらいの時間で消えるかも心得ていて、お客様が来る時間から逆算して吸っていた。


極上の癒し&サービス、これについては、きちんとしたルールがあるのでその通りに行われていたように思う。
ただ、ここで癒しを与えるだけではないのが現実。
自社の商品を売らなくてはならないのだ。
いかに気持ちよくなってもらって商品を買ってもらえるか、これが重要になる。
本当に素晴らしい商品も勿論あるのだが、正直そこまでではない物もあるわけで。
それでも売り付けなければならないというのが私には耐えられなかった。
化粧品はラインで使ってもらってなんぼの世界。
これには疑問しか抱けなかった。


大きなショックや小さな違和感、ゆずれない理念等から、面倒を見てくれていた店長さんや先輩には申し訳ないが、私は早々に辞めることにした。

若かった私は、うまく言葉で伝えられる自信がなかったため、手紙を書いた。


勘の良い店長さんは、手紙を渡した時点で何かを察したらしく、数分後に別室に来るように言われた。

二人きりになると、店長さんは、「手紙、読んだよー。」と言って席を立ち、タバコに火を着けた。

怒られるのではないかという緊張感に黙っていると、「ゆるらかは推しは弱いけど、お客さんに気に入られる人柄があるから、3年で店を持たせたかった。絶対にうまくいく自信もある。」
と話してくれた。

私の中では何を言われても考えは変わらなかったので、ただただ「すみません。」と答えていた。

店長さんは、その後は多くを語らず「分かった。」と言ってくれた。
タバコを吸い終わったら行くから先に出るように言われ、席を立ち部屋を出ようとした時、ふと気になりチラッと店長さんを見ると、こちらに見えないように泣いていた。

傷つけてしまった?
裏切ってしまったのか?


その時の私にはどうしたら良いか分からず、最後の日も気の効いた御礼は言えなかった。
私はすでに次の仕事が決まっていたのだが、店長さんは「会いに行くから。」と笑顔で送り出してくれた。
これが大人の対応なのだと思った。


エステが悪いわけではない。
職場のスタッフが悪かったわけでもない。
ただ、私には合わなかった。
それだけ。
やってみなかったら分からなかったこと、見えなかった世界。
それを体験できただけでも私は幸せ者なのだろう。

9月にして今年を振り返ってみる。

まだ9月だけど、振り返りたくなった。


今年は、異動先の職場が「年間二桁は有休を使いましょう!!働き方改革です!!」という環境だったので、ちょこちょこ休みを取っている。

平日しか行けなそうなお店でランチをしてみたり、地元に住んでいながら行ったことのなかった場所に行ってみり..
嫌な顔ひとつせず付き合ってくれている大切な人達に感謝感謝。


・フェスに行くことができた。

コロナでどうなるか分からない状態での開催、感染症対策は入念にされていて、主催者側の熱意が伝わるものだった。
ソーシャルディスタンス&アルコール消毒、そしてマスクは勿論、観客席では声も出せないという中ではあったが、そんなものは関係ないと思う程感動させてくれた。 
本気で伝えたいメッセージって、どんな形でも伝わるよね。うんうん。
全員優勝。


・母が乳ガンの手術をした。

母は昔から病気はしていたが、60歳を境にパッタリと病気は無くなり健康体になるという奇跡的なことが起きていた。
今回の乳ガンは、若い頃に子供ができず女性ホルモン療法をやっていたのが今になって出てきたのかなとゆう気がする。
ステージとしては初期の方で成長スピードも遅い、女性ホルモンをエサにするタイプのガンだったが、腫瘍が大きく本人が気になるということもあり、切除した。
母の右胸は半分くらい無くなってしまったが、転移もなく術後の状態も良いため、早く退院することができた。
しばらくは「痛い」と言っていたが、退院後数日で買い物に行けるくらいになり、今ではなんら変わり無く生活している。
自分が小さい頃は、母の死なんて考えるだけで不安で仕方がなかったのに、30代にもなってくると、どこか冷静な自分が居て、病気や手術を淡々と受け入れていることに気が付いた。

昔、講演会で有名な学者さんが言っていたっけ。
親はどうやったって先に死ぬんだよ。
順番なんだからさ。と。
健康って、それだけで幸せだよね。うんうん。

ゆったり考えること。

今年も残り僅かになりましたね。(え?)
だって、9月ももう半ば、そしたら、10、11、12月と残り3ヵ月ですよ。
それは、もう年末モードです(笑)


さて、昨年も世の中の動きと反比例するかのように心穏やかに暮らしておりましたが、今年もそれは継続中であります。

私の周囲には「行動が制限されて昔のように楽しめない!!」「鬱になりそう..」と嘆く人が沢山居りますが、私は何時の時代も「限られているなら、その中で最高に楽しめば良い!!」と思っています。

やりようによっては、いくらでも自分を楽しませる方法はあるのです。

「楽しませてくれるサービス」に頼らないと自分を楽しませることができないタイプの人達は、これからの時代は生きにくくなっていくのではないかと思われます。

エステに行くとか、高級ホテルで最高のサービスを受けながら食事をするとか、遊びを提供してくれるイベントに行くとか、とにかく「誰かに、してもらう」が自分へのご褒美になっている人は、自分で自分を楽しませることを忘れてしまっているのではないかと感じるのです。

その点、私は今の世の中は生きやすい。

元々「サービス=ご褒美」と感じることが少なく、自分で自分の機嫌を取ることが得意だから、カラッと晴れた日に外で気持ち良い風にあたっているだけでも、気分が上がるわけです。
好きな曲を聞いて様々な妄想をする時も楽しい。


欲を言えば、大好きな人達と少しでも一緒に居ること、美味しいものを食べること、自分の考えていることや感じていることを共有する人が居て、さらには理解してくれる人が居ることも大きなご褒美だったりする。

何処かに出掛けて綺麗な景色を見るのも最高に楽しくて嬉しい。
その感動を誰かと分かち合うことはもっと楽しくて嬉しい。

例えばチョコモナカジャンボのアイスを大切な人と半分に分けて食べる。
金額にしたら1人50円ちょっとだけど、幸福度は数万円するエステ並だと思うのですよ。


こうゆう感覚を理解して共感してくれる人とずっと生きていきたいな~と思う今日この頃なのです。

2021のスピード感

2021年、スタートして早26日目。
色々と書きたいことはあったのに、何となく過ごしてしまっていました。
家でお風呂に入れる喜びを噛み締めながら...


さて、まずは初夢のこと。
今回の初夢は基本「爆笑」でありました。

3部作になっていたのですが、第1部は職場の同僚と学校で授業を受けている場面。
教科は国語で、俳句を考えている。
隣の席の同僚がふざけてくるので、頭を小突く。
なおもふざけてくるので、また小突く。
何故か小突かれている同僚は爆笑していて、私も笑いが込み上げてくるのを必死で堪えているという夢。
暴力は反対派なのに、不思議だ。

同僚を小突いていた学校の休み時間になる。
私は大人として扱われていて、とある学年の教室の消毒?を任される。
直ぐにゴーストバスターズのような格好をして、消毒へ。
助手のような見知らぬ女性と2人で、背負ったタンクから煙のようなものをプシュ~っと撒く。
何故か、教室の四隅を重点的に消毒し、白い煙が結界のような感じになった。
満足感に浸りながら仕事終了。何故かニコニコ。


次に第2部。
場面は変わり、阿部サダヲと2人で写真撮影をしている。
周囲にはスタッフのような人が数人囲んでいるのだが、全く気にならない。
むしろ、2人で大笑い。
でも顔を決めなきゃならないので、必死で笑いを堪える。とにかく楽しいからニッコニコ。


最後に第3部。
1人知らない部屋にいる。
何故か子どもを産むことを考えている。
陣痛って痛いんだよなぁとか、淡々と。
焦ったり困ったりしてる様子はなく心穏やか。
大笑いではなく、微笑んでいる。
これは一瞬の夢だった。


夢の中で終始笑っていたので、目覚めた瞬間も思い出し笑いが止まらない。
2021、どうやら私は笑って過ごすようだ!!